検出困難な菌

通常の検査では検出困難な「ステルス型」と呼ばれる種類の菌が回っているらしい。
5年前に広島県で初めて見つかった新しい型で、治療が手遅れになりやすい特性がある。
複数の専門家が「日本で生まれたと見られるCREが、西日本に広がりつつある」と警告している様子だ。
一般的なCREは、切り札的な抗菌薬であるカルバペネムが効かない。
それに加え、ステルス型は実際にはカルバペネムが効かないのに、通常の検査法では「効く」という誤った結果が出る特異性がある。
このため、検出しにくいだけでなく、医師が検査結果を信じてカルバペネムを治療に使い、手遅れになる恐れも強いのだそうだ。

シャルル・ジェラール

1816年にストラスブールに白鉛製造業者の息子として誕生した。
地元のギムナジウムを卒業後、1831年にカールスルーエ理工科学校、さらに1833年にライプツィヒの商業学校へと移り、そこで化学を学んだ。
1834年に一旦実家に戻り家業を継ぐが、肌に合わなかったらしく父の反対を受けながら出奔し、ハーゲナウの槍騎兵隊に入隊してしまう。
その後1836年に除隊し、今度はギーセンのユストゥス・フォン・リービッヒの元で学んだ。
1838年にリービッヒの紹介でパリのアンドレ・デュマの元で助手となった。
ちょうどデュマが型の説を提唱したのと同じ時期である。
1839年に残余の理論と呼ばれる複分解反応に関する理論を提案した。
1841年にデュマのつてでモンペリエの化学ファキュルテの臨時教授となった。
このころジェラールは存在の連鎖という生気論的な有機化合物の分類を提示した。
すなわち脳を構成する物質を上位に、二酸化炭素や水のような代謝産物を下位に置くような序列構造を考案している。
1843年に相同列の概念に基づいた分子式に基づく化合物分類を提唱した。
また残余の理論にもとづくとイェンス・ベルセリウスによる原子量・分子量の決定法に問題があることを示した。
これはアボガドロの仮説の妥当性を示す第1歩となった。
またこの年にオーギュスト・ローランと政治活動を通じて知り合い親交を結んだ。
ローランは分子式に基づく分類を化合物の性質に関する情報を何も与えていないとして批判した。
その後のジェラールの研究はローランからの批評に大きく影響されている。
また分子式に基づく化合物分類の発表は師であるデュマとの間にプライオリティについての争いを引き起こした。
ジェラールは年長者への敬意を欠いて自分の方が優れていると主張し、また批判が容赦ないものであったため、不遇な扱いを受けることになっていく。