1973年のセリーグ

1973年のセリーグペナントレースは、最終盤に波乱となった。
あと一勝で阪神の優勝が決まる、という試合を落とし、更に最終戦で巨人にも敗れ、巨人のV9を許してしまったのだ。
この時期、監督と選手との対立もあり、チームが一丸となっていなかった事が大き様だ。
戦後再開した最初のペナントレースで首位打者となり、往年の阪神“ダイナマイト打線”の中核を担った金田監督だが、指揮官としてはやや考え方が偏る傾向にあったことは否めないと言われている。
翌74年4位に終わると解任。晩年はステーキハウスの経営に乗り出したが、92年12月に72歳で亡くなった。

帝国主義の興隆

19世紀のイギリスは工業化による生産力の増大により得た、圧倒的な経済力と軍事力で世界の覇権を握った。
イギリスは時には武力をも用いて世界各国に自由貿易を認めさせ、イギリスを中心とした国際経済体制に世界を組み込んでいった。
この過程で、大陸国家である清やロシアと海洋国家のイギリスとの間に度重なる衝突が発生し、20世紀における世界大戦の遠因が形成された。
アジア、アフリカにとっては苦渋の時代であり、トルコ、タイ王国などの国では西欧文化を取り入れ近代化が試みられた。
清国の半植民地化が実質的に始まったのは、アロー戦争敗北後に天津条約、北京条約を締結してからである。
1853年、アメリカのペリーが浦賀に来航、江戸幕府に開国を認めさせ、日本も欧米を中心とした世界経済に組み込まれた。
1868年には長らく続いた幕藩体制は崩壊し、新たに発足した明治政府は欧米文化を摂取して急速な近代化を目指した。
19世紀末には、近代化に成功した日本やタイ王国などの一部の国以外は、西欧列強の植民地にされるか、強い影響下におかれた。

八戸市

八戸市は南部地方の中心都市であり、八戸都市圏は約33万人の人口を擁する。
また商圏は隣接する岩手県北東部に及び、商圏人口は東北地方有数の約60万人を誇る。
港町と工業都市の2つの性格を併せ持った街である。
伝統芸能であるえんぶりおよび八戸三社大祭、騎馬打毬は共に国の重要無形民俗文化財に指定されている。
伝統工芸品は「八幡馬」「八戸焼」「南部姫毬」などがある。
2002年12月に東北新幹線が八戸駅まで延伸開業し、東京駅まで最短2時間56分で結ばれた。
『氷都八戸』八戸市はスケート、アイスホッケーが盛んで実業団体やジュニアチーム、女子チーム、素人アイスホッケーを含め加盟登録数は60チームにのぼる。
B-1グランプリ発祥の地であり、第1回の殿堂入り・開催地(投票対象外)後の第2回~第4回は2位、第5回~第6回は3位そして第7回では優勝し、 第1回の殿堂入り以外で全て3位以内を獲ってるのは八戸のみである。
南部煎餅・せんべい汁・いちご煮など八戸発祥料理があり、お盆には「背中あて」を食べるのも八戸ならではである

検出困難な菌

通常の検査では検出困難な「ステルス型」と呼ばれる種類の菌が回っているらしい。
5年前に広島県で初めて見つかった新しい型で、治療が手遅れになりやすい特性がある。
複数の専門家が「日本で生まれたと見られるCREが、西日本に広がりつつある」と警告している様子だ。
一般的なCREは、切り札的な抗菌薬であるカルバペネムが効かない。
それに加え、ステルス型は実際にはカルバペネムが効かないのに、通常の検査法では「効く」という誤った結果が出る特異性がある。
このため、検出しにくいだけでなく、医師が検査結果を信じてカルバペネムを治療に使い、手遅れになる恐れも強いのだそうだ。

シャルル・ジェラール

1816年にストラスブールに白鉛製造業者の息子として誕生した。
地元のギムナジウムを卒業後、1831年にカールスルーエ理工科学校、さらに1833年にライプツィヒの商業学校へと移り、そこで化学を学んだ。
1834年に一旦実家に戻り家業を継ぐが、肌に合わなかったらしく父の反対を受けながら出奔し、ハーゲナウの槍騎兵隊に入隊してしまう。
その後1836年に除隊し、今度はギーセンのユストゥス・フォン・リービッヒの元で学んだ。
1838年にリービッヒの紹介でパリのアンドレ・デュマの元で助手となった。
ちょうどデュマが型の説を提唱したのと同じ時期である。
1839年に残余の理論と呼ばれる複分解反応に関する理論を提案した。
1841年にデュマのつてでモンペリエの化学ファキュルテの臨時教授となった。
このころジェラールは存在の連鎖という生気論的な有機化合物の分類を提示した。
すなわち脳を構成する物質を上位に、二酸化炭素や水のような代謝産物を下位に置くような序列構造を考案している。
1843年に相同列の概念に基づいた分子式に基づく化合物分類を提唱した。
また残余の理論にもとづくとイェンス・ベルセリウスによる原子量・分子量の決定法に問題があることを示した。
これはアボガドロの仮説の妥当性を示す第1歩となった。
またこの年にオーギュスト・ローランと政治活動を通じて知り合い親交を結んだ。
ローランは分子式に基づく分類を化合物の性質に関する情報を何も与えていないとして批判した。
その後のジェラールの研究はローランからの批評に大きく影響されている。
また分子式に基づく化合物分類の発表は師であるデュマとの間にプライオリティについての争いを引き起こした。
ジェラールは年長者への敬意を欠いて自分の方が優れていると主張し、また批判が容赦ないものであったため、不遇な扱いを受けることになっていく。

フレックソディ

イングランドのイーストボーンに生まれる。
オックスフォード大学のメルトンカレッジを卒業。
1900年にカナダのモントリオールにあるマギル大学で化学の実験助手に就任する。
この大学でソディはアーネスト・ラザフォードと放射性崩壊の研究をおこなった。
ソディとラザフォードは放射性元素の特異な性質が、他の元素へと崩壊することによって起きることを明らかにした。
この放射性崩壊はアルファ線・ベータ線・ガンマ線を発生させていた。
放射性物質が発見された当時、誰にもその原因はわからなかったのである。
原子の変化が実際に起きていることを証明するため、ソディとラザフォードは慎重に研究を進める必要があった。
ソディの研究と放射性物質に関する新たな知見をわかりやすく紹介した評論は、ハーバート・ジョージ・ウェルズの小説『解放された世界(英語版)』に大きなインスピレーションを与えた。
この小説は未来に起きる長期の戦争で複葉機から投下される原子爆弾が描かれていることが特徴で、混乱から平和な社会が出現する内容である。
ソディは著書『Wealth, Virtual Wealth and Debt』においてウェルズの『解放された世界』を称賛している。
ソディはまた、放射性物質のプロセスがおそらく恒星の原動力であろうと述べている。

小坂善太郎

三木武夫改造内閣では三木に求められる形で外相に就任するが、直後に大平派から離脱。
1980年に大平内閣不信任案が可決された時には、風邪を理由に本会議を欠席した。
1983年12月の第37回衆議院議員総選挙では田中秀征の台頭により初めて落選を喫すが、1986年の第38回衆議院議員総選挙で国政に復帰し、以後は中曽根康弘派に所属する。
1990年の第39回衆議院議員総選挙には不出馬を宣言。
次男の憲次に地盤を譲り、政界から引退した。
引退後も国際親善などの分野で活動し、1995年には国連50周年記念国内委員会委員長を務めた。

ジョンバール分岐点

ジョンバール分岐点というSF用語がある。
これはあるSF小説から生まれた。
『航時軍団』は、ジャック・ウィリアムスンが1938年に発表したSF小説。
「アスタウンディング・サイエンス・フィクション」誌1938年5月号から8月号の3回に渡り連載された。
連載時の触れ込みは“新しい概念の時間小説”。
パラレルワールドの概念を発展させ、時間旅行者の介在がなくとも歴史上の重要なポイントで時間軸が分岐し、世界が枝分かれして元の世界と平行した別の世界が生まれているという解釈を初めてメインプロットとして扱った作品。
本作から平行世界の分岐点を意味する「ジョンバール分岐点」というSF用語が生まれた。

何故だったか

人口スキー場のザウスは、何故閉鎖されたか。
一度も赤字になった事がなく、黒字経営を続けていたという。
では何故だったのか。
最初から、10年限定の営業予定だったそうだ。
10年経ったので、継続か廃止かという判断で、継続するならば
耐震補強などの工費が発生すること、また、全盛期に比べて
利用者数が減っていた

広い隙間

飯田橋は電車とホームの間に相当広い隙間がある。
半径300メートルという急カーブ上にあるため、ホーム自体が大きく弧を描いているのだ。
降りる時には充分注意しないといけない。
事故に遭ってからでは遅い。
非常に重要な分岐点になるだろう。